「骨」は根っこ@「骨格」を考える
昨日の記事の流れから、身体を組み立てる「骨格によって言語体系が変わる」という体感を強めた本があったことを思い出しました。
大学時代に出会ったこの本 〈日本語はなぜ美しいのか〉(黒川伊保子 著 2007年)。

この中で、当時の私が一番よく覚えていた箇所を抜き出してみます。
例えば、アフリカ系や南米系の人たちの大腿骨と骨盤のジョイント(接合部)は、アジア系人種に比べて深いので、身体がスイングしやすい。このジョイント部では大腿骨の終端が丸くなっていて、骨盤がお皿のような形でこれを受けている。このお皿の丸みが人種によって違うのである。
黒川伊保子 著〈日本語はなぜ美しいのか〉 P18-19
お皿が丸くて、大腿骨の集団を包み込むようになっているアフリカ系や南米系の人たちは、腰を前後に振るだけで腰に微妙な回転型のスイングが生まれる。ジョイント部が丸く深いので、直線的に前後には動かないのだ。つまり、ラテンダンスの、八の字に腰をくねらせようなあのスイングは、彼らが自然に持っている所作なのである。
私たち日本人のお皿は浅いので、腰を前後に降れば素直に前後に動く。日本人がラテンダンスを踊るときは、八の字スイングを頑張って作らなければならない。代わりにのや胸前のような静かな動きができるのは、この浅い骨盤ジョイントならでは。(中略)揺れるような回転型のスイングを自然な所作として体に持っている人々と、直線的な動きが自然な人々では、当然、母国語のリズム感も違ってくる。(中略)つまり、「何かが自然にふに落ちる感じ」は、骨格が違えば違う、と言うことである。
太字は当ブログ筆者によるもの。
生傷だらけの子ども時代、骨を折ってもおかしくないような怪我をたくさんしたことも手伝って(どれも運良く折らずにすみましたが)「骨」に対する知覚アンテナが少し鋭かったことから引っかかったこれらの言葉は、その後、私自身の「身体」の捉え方に大きく作用しました。
身体のバネ、リズム感を含めた民族の身体性。
その「身体性」を分解していった先で残る、「骨」が主張する強さと、その根源性。
一事が万事、骨が通っていなければ筋も通らない。
無意識下の「骨」へのアンテナが、「身体」をとらえ直す装置になっていると、今改めて思います。