偶然に何を読む@「意味」を求めて
ある1つの出来事が起こった、そのあと、まるでそれに呼ばれたかのように別の出来事が起こる。
そうした小さな偶然の重なりに、何か意味を探し、考え込むと言うことが密かな楽しみであったりします。
意味が明らかでない所に意味を見出す、「見立て」の遊びに似ているからでしょうか。
ここ最近、1日1日言葉を組み立て、文章を書き、意味を考える癖がついてくると、一つ一つの出来事にアンテナが作動し(もちろん全部ではないですが)、そのメッセージを読み取ろうとする体質に変わってきたように思います。
6月26日の記事で、日本語で言うところの「ごますり」が、英語では「Polishing apple」と言う言い回しをするらしい、と言う私の数少ないうんちくを披露していますが、なぜかその翌日、普段あまり通らない道を雨の中歩いていると、昔ながらの八百屋さんで店番をしていたおじさんが、首にかけたタオルで一生懸命りんごを磨いている姿を見かけました。

できすぎたような偶然。
偶然が、私にごまをすってくれていたかのように。
(あのりんご、買えばよかったのかな…)。
そして一昨日、「蝉の声」についてふと書きました。
今日、出先で足元にジリジリと目覚まし時計のような音がしたと思ったら、蝉がコロンとひっくり返っていた。
蝉が何か有益なメッセージを持ってきてくれたとか、蝉のお腹を見て何か閃いたとか、そんなおいしい奇跡はありません。
なんの変哲も無い出来事。
これまでにだってあったかもしれない、けれどもあっさりと忘れてしまうような、日常の一コマにも数えられないようなワンシーン。
偶然なのだけれど、何かイミシン、何か符号めいて見える。
よくわからない、でも意味ありげ。
それはとても即興的。