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「感覚」と「感性」について。

講義中に、この2つの言葉がどんな文脈で語られたのかを細かく細かく思い出すことができないのですが(脳内レコーダーがあれば良いのに)、私のアンテナを大きく震わせたのが「感性」の持つ意味合いの変化。

「感覚」は、一人ひとりの心とからだが受け止める信号。
感覚と言うものは曲者で、その人の感覚はその人にしか味わえない、体験できないもの。

たとえば
「天にも登るような」とか
「胸を締め付けるような」とか
「叫び出したいくらいの」とか

色々いろいろ便利な言い回しはあれど、ある人の心が捉えた感覚は、結局はその人だけのもの。
あくまでひとりの人間の、内側にとどめられる体感であり経験、記憶なのだと思います。

講義の間、難しい課題にペアで取り組んでいる間も、グループでワークしている間も、何度となく

「今あなた達、ちゃんと自分の周りを見ていた?」

と問われました。

そう声をかけられて私は、人は(このように一絡げにするのは乱暴かもしれないけれども)たくさんの人間の中にいても、容易に自分の「感覚」の中に埋没してしまえると言うことに、改めて気がつきました。

今、自分の周りに何が起こっていたか?
ふと周りを見渡して初めて、いろんなことに気がつく。
すぐ隣にいたペアは年配の方で少し歩きにくそう。
逆どなりのペアの女性のピアスが、ものすごくおしゃれ。などなど。

先生の口から「感性」と言うキーワードが出てきたのは、その直後だったと思います。

自分の内側に沸き起こっている「感覚」だけを見つめるのではなく、自分の外側に向けて自分の目や耳を開くこと。
自分の外側で、今起こっていることに意識を向け、そこに自分の体と心を呼応させること。

その力が「感性」です、と。

ひらめいたひらめいたひらめいたひらめいた!

「感性」の意味が、改められたような気持ちになりました。

「感覚」も「感性」も、それらは全て自分という人間の器の中に生まれるもの。
だからこそ、そこに個性が映し出され、まぎれもなく自分が自分であると言うことの表れになるのだと、これまで考えてきました。
ですが、「共感力」や「協調性」といった言葉だけでは射抜くことのできない、自分の内側と外側を強く太く結びつける、双方向の矢印が見えたことに、大切なものを発見したような喜びを感じたのでした。



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