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「音楽ワークショップ」に私が託す希望の中にはいくつものキーワードがありますが、その中のひとつが「多様性」

昨今「ダイバーシティ diversity」と直接的に発音され、活字としても目にする機会は多くなってきてはいるものの、実のところこの言葉の理解はまだまだ道半ばで、フワッとした実体のつかめない文脈とニュアンスの中でようやく成立しているように感じられるのですが、いかがでしょうか。

文字通り肌感覚をもってして、「多様性」への理解と学びを強く要求される場が増えてきていると感じられる今、「多様」はたやすく「混沌 カオス」に置き換えられがちで、大小さまざまに混乱を招いてしまっているように思えるのです。

「多様性」の実現への一歩は、まずは「違いをみとめる」ことと理解されると思いますが、私が考えるにその前の段階として、「同じをみとめる」姿勢が必要だと思っています。

年齢、性別、裕福であるのかないのか、大人ならばどこの大学を出たのか、音楽家ならばプロかアマチュア、家族がいるならば親なのか子なのか?

豚肉は、うろこのない魚は食べられるか、たこ焼きを食べるのはアリなのかナシなのか。

私たち一人一人に対して、社会や思想が加える認識や記号は挙げ始めればキリがありません。

なん乗にも複雑に複雑が重なったこの世界で、その記号によって各々が結び付けられるコミュニティの強固さを思えば、私たちは容易に分断されてしまうということです。

そして何より、私たちは忙しい。

「よその人」のことなんて、どこか違う世界のお話になってしまう。

「同じ人間である」ということを置き去りにして。

違いが目に付けばつくほど、人と人をイコールで結びつけるということは乱暴でとてもできない。

けれども人と人が向き合うとき、目の前にいる相手と自分を結ぶ線がいくらかあるのではないか?

その問いかけこそが、「多様性」への行動だと私は理解しています。

あなたと私は、人と人。

あなたと私は同じであって、同じでない。

同じでなくても、同じだ。

型に抜かれたクッキーのように同じはでありえない人間の性を、限りなく認めた上で相手を認識するとき、互いの違い自体に怒るのではなく、それをおもしろがれる心の下地が、ひょっとすると生まれるのではないかと思うのです。

それで、その「多様性」の何が「音楽ワークショップ」と結びつくのか。

前置きが長くなりました、次の記事に続きます。

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