「パニック」をとめないで@リトミックの学び
月に1度のリトミック研修会に行ってきました。

今年度、私が受講しているのは中級。
ここでは2歳児の子どもに向けたリトミック・プログラムの実践と学術的な裏付けを得るべく研修が行われます。
これまでのリトミックの学びについての記事はこちら。
→接点はどこに?@リトミックの学び(2019年3月26日の記事)
→教科書の外@引き続き、リトミックの学び(2019年5月26日の記事)
→「感覚」「感性」、どこに向かう@リトミック研修(2019年7月7日)
主に前半と後半に分かれて、前半でリトミックの実践理論を、そして後半ではリズム打ちやステップなどの、リトミック体系を体に入れるプログラムが入ります。
さて、毎回なにがしかのテーマなりワードなりを持ち帰るようにしているのですが、今回の研修で私が拾ったキーワードは「パニック」。

リトミックでは、受講する級ごとに進級試験が設けられており、そこに必ず複リズム(ポリリズム)が登場します。
複リズムとは、異なるリズムが同時に演奏されること。
例えば手と足を使う場合は、それぞれが全く別のリズムパターンで動くと言うことです。
足でスキップしつつ、手は単調に四分音符を叩く。
手は八分音符を叩きつつ、足は二分音符で動く。
これらは全て、複リズムです。
私の感覚では、これは「マルチタスク」の中に入ります。
手を叩くこと、足でステップを規則的に刻むこと。
それらひとつひとつはとてつもなく単純で簡単なことなのに、同時に重ねてみるとなかなかうまくいきません。
加えてそれが、足と手を役割を入れ替えるともなると、とんでもない「パニック」が頭の中に巻き起こってしまう。
手と足がまるでバラバラになっていくような、オーガナイズ、コントロールされた体の扱い方とは程遠い、途方にくれるような感覚におちいります。
人間の体は機械とは違うわけですから、ギアを入れ替えればモードが変えられるようにできてはいません。
それを分かってはいるものの、手と足の間に起こる錯誤、動きの混乱を見るにつけ、今自分の頭に起こっているパニックの大きさに唖然としてしまうのでした。
今回の研修で強調されたのは、どうすればそうした「パニック」に慣れることができるのかと言うもの。
そもそも「パニック」に慣れるだなんてできるのでしょうか。
手を打つにしても、ステップを踏むにしても、単純な動きをからだの中に取り込み、それらを切り替えたり変質させるために必要なのは、柔らかな頭と順応に長けた身体。
次々と繰り出されるリズムパターンを、自由に取り込み、奏でられるように、まずは「パニック」をいなして、乗りこなす状態にならなければいけない。
連続して繰り出される複リズムの課題に、まごつく体を叱咤激励しながら無心に手を打ち、ステップを踏んでいると、ほんの短い一瞬、まるで自分の体がダンスのように流れ始めている感覚を持ちました。
そこで感じたのが、「パニックは変容する」と言うこと。
時に「パニック」が残念なエラーで終わるのは、「パニック」に我を失った心と体が、それまでのプロセスに強引にピリオドを打ってしまうためだ。
「あぁ。もうダメだ」と流れを手放した瞬間、「パニック」は正しく「パニック」として終わりを迎えてしまう。
手綱を離さないで、動き続けること。
混乱に混乱を重ねるのではなく、「流れ」を断ち切ることなく続けること。
どうやらそれが、「パニック」に慣れると言うことなのかもしれない。
「パニック」に親しむには、「パニック」を止めないこと。
それが今回私の得た学びです。