「声」は快をつくるのか?@声を演じる②
最近時間をかけてウンウン言いながら読んでいる本の中に、「即興 improvisation 」についての記述で、こんな一説がありました。
In order to learn, human beings have to do what we don’t yet know how to do- in other words, we have to take risks.
学びのために人は、どうすればよいのか方法のわからないことをするべきだ。
言い換えれば、それはリスクをとるということ。
While people often live their lives as if there is a script, the fact is that people are also capable of breaking from the expected.
C. Lobman M.Lundquist著「Unscripted Learning」第1章 即興と学び より
Right at this moment, you could choose to do something unexpected-
人はしばしば、その人生に台本があるかのように生きるものの、それと同時に予想外に対しては寛容である。今まさに、あなたは予期されなかった行為を選ぶことができるのだ。
予期されなかったこと、予想もしなかったことをする。
これまでにしたことがないことをする。
これまでの自分にできなかったことをできるようにしたいと思うなら、これまでやったことのないことをしてみよう。
「声」に話を戻すと、私にとってこれまで、自分の「声」を使うことはあまり嬉しくない、むしろ避けたい行為でした。
何かを伝えたいとき、差し向かいで話すよりも文章を綴る方が、よほど楽で雄弁な自分を信じられる。
文章と声とでは、自分の人格さえまるで変わってしまうかのように思える程。
でも、自分の声を扱うたびに、引っ込んでしまうよう自我を持て余すことはもうしたくない。
となれば、やるべきことはただ一つ。
これまでにしたことがないことをする。
声に感じる不安や恐怖、羞恥。
それらの「不快」を「快」へと転じていくこと。
それは、私にとってはこれまでにしたことのない、無茶な即興に近いことです。
なんと大それた、ざっくりした課題でしょう。
さてどうするか。
いくつかのヒントが、ある映画の中に見つかりました。
続きます。