アイドルは誰だ@声の偶像
自分の声を、少しずつでも強めたい。
先日、私は今の自分が今すぐ欲しい力の5つの力の中に「声」をあげています。
→こちらの記事参照
昨日、実際にそれを相談する機会があって、「好きなアーティストはあげて下さい」という出題がありました。
そしてなぜか、そこではたと考え込んでしまったのでした。
好きなアーティストはたくさんいる。
心動かされてきた音楽も、凝り固まった涙腺も決壊させられた声も、その微細な響きさえ皮膚感覚として刻まれた声にも、幸いいくつか出会ってきました。
でも、ここでいう「好きなアーティスト」の意味は違うと思う。
自分の声を育てたいと考えたとして、その目標におく存在。
単に「好きなアーティスト」であるということを超えて、「自分がそのひとになり変わりたいとさえ思えるほど好きなアーティスト」ということでしょう。
「声を変えたい、なんとかしたい」自分はそう長く思ってきました。
けれども、「こんな声になりたい、こんな歌い方をしたい!」と言えるような対象を自分の内側にいだくことはこれまでなかったのだなぁ、と改めて気づいて、自分自身びっくりしています。
壁を作っていたのは、私が声に対して感じていた独特の羞恥心。
それは、あらゆる歌い手にとって、声が「演じる」道具であると言う事から来ています。
自分ではない誰か、時に人種や年齢、果ては性別という枠組みさえも超えて、物語の一部として誰かの人生を「演じる」。
一曲のアリアにも、ポップスにも、バラードにも、確かな「ぼく」や「わたし」、「おれ」、「あたし」がいて、それを「演じる」。
そして、たとえその役を生きていたとしても、その役を鏡にしてくっきりと映し出される演じ手のパーソナリティ。
そんなこと恥ずかしくてできない。
たとえ演じることはなくても、自分の声に映し出される自分を、私は長く誇りに思うことはできていません。
とは言え。
声に向き合うとなって、お題が出たからには、もう逃げも隠れもできない。
「アイドルは誰だ?」
同化していくことがどだい無理であったとしても、自分にとっての確かな指針、手堅い見本、遠くにあって近しい、せめて似姿になりたい、そう憧れるようなアイドルは誰だ?
目下、私の声のアイドルを求めて、記憶のあちこち、ユーチューブのそちこちを駆けずり回っています。