小指は、人差し指よりも短い@「自由」の知覚
自分が最も慣れ親しんでいるはずの楽器でも、ふとした弾みに自由度を失うことがある。
何度も繰り返した旋律やパッセージでさえ、いつまでも不自由が抜けきらず、つんのめってしまうこともある。
楽器と自分との距離を出来るだけ縮め、口をついて言葉が流れ出るように、身体をもってして音が生まれやすい状態を増やすこと、それが私にとっての練習です。
私が主に扱うのはヴァイオリンと言う楽器。
小柄な私の腕の中にもちゃんと収まってくれる、私にとって最もハンディな楽器です。
ところが、年を追うごとにニュアンスや表情豊かな音色や節回しを世の中に発見するにつれ、自分の楽器から出てくる音色の幅が追いつかないと感じられるようになり、少しずつ少しずつ自分と楽器との関係を見直し始めています。
望んでいる音色を出せない、望んでいる動きをかなえることができない、いわば「不自由」の状態をどのように解かしていくのか、それが目下の私のトピックです。
それにしても、なぜこんなに「不自由」なのか?
答えはばかばかしいほど身近に見つかりました。
ある時、ヴィブラート(弦楽器の奏法の1つで、指を震わせることで演奏される音の高さを揺らすこと)を練習していると、人差し指と小指の稼動域のあまりの違いに呆れつつ、突然おかしな所で腑に落ちた。
私の小指、人差し指より短いじゃないか。
身体の部位それぞれの稼動域、パワー、動きの特性、柔らかさ、それらは例えば一口に「指」といっても五本ごとに違う。
同じような動きを要求したとして、太さも長さも違う指が同じように動いたとしても、同質の音を作り出せるはずはありません。
同じではないものに、同じ条件と同じパフォーマンスを要求する。
それはまるで、猫に二本足で歩いてみろと要求するのと同じようにナンセンスなことでしょう。

というわけではないと思います。
例えば、履きやすい靴。
風通しが良く、呼吸が滑らかな部屋。
重くないペン。
自分の身体になじむ道具、環境。
それらはいたずらに負荷をかけることなく、自分が望む「用」と「動き」をかなえてくれます。
「身体」という現実(それがたとえ指一本の話であったとしても)を無視した動きを、ずっと自分が要求し続けてきたことが、数多くの「不自由」を生み出しているのかもしれない。
小指は、人差し指よりも短い。
当たり前すぎて、注意を払うことなんてほとんどなかった。
ただ「私の小指、ほんと弱いな」、と苛立つくらいで。
まるでうっかり英文訳の問題に出てきそうなほど、陳腐でつまらないこと。
(‘Little finger is shorter than pointer finger.’ とか、出てきそうではないですか?)
「不自由」を破る鍵は、他の誰でもない、私自身の身体への無理解が握っていたのでした。
身近どころか身内です。
自分の身体が、一つ一つの部分が独立し、心地よく反応できる先で、私と楽器、楽器と身体の関係が、より柔らかくなるのかもしれない。
そう期待しつつ、今日も短い小指をなだめ励ましながら音を作っています。