一滴の重み@写真はなぞり、なぞられる
ホームページの編集と制作日記ブログを行きつ戻りつしながら、記事を書くという習慣をできる限り守るようになってから、世の中で発信されているあまたのページ、情報に対する捉え方が少しずつ変わってきている体感があります。
特に、毎日こまめに発信を続けているサイトに通い始めると、そこで切り取られた世界と綴られ る言葉から、実は静かながらに強いエネルギーが発信されていることに気づきます。
ハレの日、ケの日は非日常、何気ない毎日はそうダイナミックに動く訳ではないけれども、どんな人も確実に昨日とは違う今日を描いている。
どんなに強固な習慣があったとしても、毎日なにか違うものを食べて、違う言葉を交わして生きている。
本を読むならば昨日の続き、上へ下へ波打つ心を抱えながら。
そうした「誰か」生身の人間の生活と息づかいがページの向こうに見える時、自分がその「誰か」にゆっくりと動かされていることに気づくのです。
例えば、丁寧につくりこまれたお弁当のショット。

それを見ると、色んな思考が頭に湧き上がる。

私もおにぎり食べたい、今晩にぎってみようかな。
いつもは塩むすびだけど、ちょっと貰い物の昆布を入れてみようか。
少し温かくなったら遠足に行きたいな。そういえばうちのお弁当箱どこにあるんだっけ?
だれかの瞳が写した世界を、知らず知らず自分は覚えているし、それをなぞるように心が動いている。
静かに自分の胸底の水面に落ちてくる一滴ようだ、と思います。
小さくとも確かな波紋を生み、鮮やかに水の色を変えている。
一滴は、おもい。
ひとしずく きょうもたたんと 水を打つ