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動画コンテンツなるものを作ろうとした場合に必要なものは、まずは動画素材。

 

恥ずかしながら、動画というコンテンツ自体を自分の手ずから扱うことがほとんどなく、かろうじて撮影はしても撮りっぱなし、ブレも気にせず目線はガタガタ、そこに手を加えるなんてことも億劫で、デバイスの中に正体不明の(結局…)動画コンテンツが意味をなさず列をなしている人間からすれば、素材を揃えるにもひと苦労です。

たまたま家にある夫所有の一眼レフをこねくり回し、毎日10分格闘をスタートさせました。

よくもまぁ、「記録をとる」という行為のためだけに、これだけのややこしい操作性を詰め込んだものだなぁとあきれながら、ボタンというボタンを押しまわる。

 

わからなくなる度に「トリセツはどこにいった⁉︎⁉︎」と小さな悪態をつきつつ、この小さな機械が記憶し、再現してくれるひと区切りの時間を、自分の思うままに切り取るために、私も道具に教わらなければいけないのだ、と観念してさわり続けています。

どのボタンもどの表示も、今の私には道の向こうにぼんやりと見えている方向指示器のようなもの。

 

でも、きっと「必要だから」それはある。

 

楽器でもそうですが、人間が手にとるどんな道具は、新しい古いにかかわらず、淘汰されて今の形を得ている。

この小さな機械は、まだ自分が「欲しい」「必要だ」と気づくに至っていない、いろんな道具や方法、その他何かをすでに備えてくれているのだろうな、と思います。

「凝り性」の人間を際限なく「凝り性」にしてくれる何かを。

 

凝り性は 凝った道具に つくられる

 

メカに限らず、理解できずに使いそびれているものが自分の自由な道具になったなら、理解できることも形を与えられるものも、一挙に増えるのかもしれない。

そうワクワクしつつ…。

 

 

「トリセツはどこにいった⁉︎⁉︎」

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