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文章を書きながらふと思ったのですが、どんな文章も、声に出して読んでみるととたんに肉体的になりますね。

書けば饒舌、話せば寡黙、ということもあるのだし、文章がその人を表す一部分でしかないとは知りつつ、言葉が表す人の内奥とリズム、温度というのはそれにしても雄弁だなぁ、と思うのです。

立て板に水、あるいは水飴のようにじわりじわりと進むテンポ感、なまり、言葉の組み合わせや句読点の打ち方、各々が強烈な個性を生み出し、加えてそれらが音になって聞こえてくると、ことばの残り方がまるで違う。

口にするだに気分良く滑りのよいことばもあれば、何度も何度も読んで、噛んで噛んで顎がくじけるほど噛み砕こうにも、身体と頭に入ってこないことばもある。

その昔、自分がCDを聞き込んでいたヴァイオリニストの歌い口調、節まわしを完全にコピーして(したつもり、ですが)ヴァイオリンを恩師の前で弾いた時、「自分の声でまず歌ってみたのか」と厳しく問われたことがありました。

当時10代の、まだまだ未成熟な細い手指、幼い内面を総動員したとてかすりもしないような、豊潤で滋味のある節まわしを私が再現しようとしている様は、恩師にとってはさぞやいびつで、安易に映ったことだろう、と今にして思うのです。

 

 恩師のことばが、

「自分の血肉になっていない、借りもののことばでものを語るんじゃない」

という厳しい、でも当たり前の示唆だったのだと気づいたのは、随分あとのことでした。

必要なことばは時として、指先に刺さった小さな棘のように残り、あとあと突然に意味を持つこともある。

自分の身体という器に入ることばも入らないことばも、残ることばもそうでないことばも、好きも嫌いも、知らない間に自分の中に取り込まれていくように思います。

 

「快か不快か」ではなく、「快も不快も」。

自分をつくるものなんて、ことばも血も構成物も数字も、絶えずその数字を変えるのだろうなと思えるのです。

 

快不快 まざり溶けゆく 人はうつわ

 

それにしても、自分にどんな成分が入っているのか知りたくて、数年前にはやった「神が私を作ったとき」で試しに遊んでみたら…。

 

 

ええええええええええ。

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