始めた先で@てくてく「続ける」
ワークショップ・イベントを連続して開催するようになって、それまでに無い感覚で物事にあたるようになりました。
自分の名前やプロフェッショナリズム、言葉、スキル、人脈、ネットワーク、それらを使ってスタートさせたものである以上、動員状況はもちろん、イベントの質と内容、その先への展望に、誰よりも私が責任を持つことになります。
それは自前のイベントとして当たり前のことですが、いざそうして物事を判断したり、采配したり、軌道に乗せようと動いてみると、それらの行動一つ一つの結果が気になるのです。
様々なことを同時に考え、軌道修正したり、打ち出し方を変えてみたり。
始める前も試行錯誤ですが、いざ始まってからの方が、その試行錯誤の難しさと複雑さは増していく。
工夫を加えることはとても楽しいし、「試みる」ことの喜びは得難いものだけど、あらゆる物事が自分の予想や期待の外に動いていくとき、
「届いているのだろうか」
「間違ってはいないだろうか」
「何かまずいのだろうか」
そうした悪魔のささやきが、ことあるごとに自分の耳元でいつもいつも聞こえてきます。

©︎電脳空間に飛び込んだ人のイラスト(棒人間)@いらすとや
不安が積み重なると、「そもそもやるべきではなかったのではないか?」と、そもそもの前提を疑うところまで行き着いてしまう。
土に種をまいて始終ながめては、小さな芽が出て喜んで、しおれてはアタフタし、鉢植えか地植えか、水は適量か、肥料は合っているか、その時々の判断に迷いながら、土ごとひっくり返すような勢いで、必死に座標をさがしているような感覚。
始める時に覚悟は決めていたつもりでも、どっこい腹の底は揺れ揺れだ。
自分のことはたいがい「ぼーっとしている」と思っていたけれど、「どーんとしている」からは程遠く、結局は随分な気にしぃで小心、随時過敏症なんだなぁ、と自分の本来が見えてきて、少しがっかりホロリとしてみたりもする。
今年度が始まる前、それまでのトライアルを受け、いざ本スタートを切るというとき、ご厚意で会場を貸していただいているオーナーさんに、「どうなるかは誰にも分からないけど、とにかく続けてみたら良いのよ」という言葉を頂いた時、安堵と緊張が同じだけ走りました。
それは、自分の取り組みがこれから「続ける」に足ると「信頼された」という安堵であったと同時に、「続ける」ことに要求される工夫と修練、葛藤がそこにもれなく付いてくることを意味していたからです。
どうなるかは、本当に誰にもわからない。
与えられたタイミングやチャンスの意味は、続けて続けて、とにかく続けて、その後ろ姿を遠く見送ってからでしか、その本当の意味はわからないのかもしれない。
ゆれゆれぶらぶらの腹の底も、根気よく踏み固めた先で、いずれ力強く自分の基軸を育ててくれるかもしれない。
そんなわけで、今日もアリの一歩。