「選ぶ」ということについて@2019年参院選
今日は2019年参院選投票日。
「選ぶ」ということについて考えていました。
ある程度の年齢を重ねて選挙と言う事象を見るにつけ、そこに表れてくる、人間の数だけちがう様々な価値観や指向、世界観、主義、その他諸々、よくもここまで振れ幅の大きな違いをもって人間が存在できるものだと、よく思います。
政治と言うあらゆる場やパワーが集約されていく現場、そこに立つ人を選ぶこと。
そうした選挙という営みの中で、交わされ発信される言葉に自分がどう反応するのか、どんな感情がかきたてられる、ということに注目していると、「選ぶ」と言う行為の中に自分自身だけの軸足が要求されていると言うことに気がつきます。

私が思うに、どんな人の生活も、それそのものは小さな選択の連続。
今日はどんな服を着て行こうか。
何食べようか。
これをこなしておいた方が後が楽かな?
帰りはどの電車に乗るのが便利かな。
今日これをするのしないのどっち?
与えられた時間の中で、それをどう過ごすか切り分けるかは人によって違いますが、時間という期限は大きくも小さくも様々な課題を人に与えてくれる。
その課題を前にして、いつもいつも私たちはなにかを選んでいる。
選ぶときに、それまで自分が突き立ててきた自分の軸足に大きく左右されます。
好きか嫌いか。
心地良いか、そうでないか。
相性が良いか、そうでないか。
損か、得か。
信頼できるか、そうでないか。
共感できるか、そうでないか。
その選択の連続の中で、一人一人、自分だけの軸足を新しく育てながら生活をしているのだと思います。
迷い、価値観を砕かれたり、自信を持てなかったり、葛藤を持ちながら。
ことに「選ぶ」相手が人である場合は、なおさら複雑で難しい。考えることだって実は面倒だ。
それでも「選ぶ」。
100%の共感がたとえ難しかったとしても選ぶ。
自分の考えや望みを託せるかどうかわからない、信じきることがたとえ難しかったとしても選ぶ。
私のこの判断は偏った情報に左右されているのかもしれない、解釈違いだって起こしているかもしれない、あるいはいらぬ敵意や反発心をあおられての行動かもしれない。
それでも「選ぶ」。
時間も生活も政治も、流れていて足を止めてはくれない。
その中で少しでも自分が自分の意思で選んで生きているのだと言う事を、せめて死守できるように。
私は「選ぶ」。