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 アイデアの深掘りを始めると、自分がどうにも惹かれてしまうものに行き着いてしまうことが多い。
なぜかそのことばかり考えを巡らしていたり、延々と連想を続けてしまう。
そうした「理由のない」営みが、自分が作り出すものの中に綺麗に収斂されたらいいのになぁ、などという下心もありつつ、ふと繰り返し舞い戻る思考は止まらないしやめられない。
ヒント探し、お宝探しのような感覚です。

その中で最近、私がついつい考えてしまうのが「色」と「標本」です。
そして、そんな私のクセと欲望にぴしゃんと答えてくれる本に出会いました。


「色の知識」城一夫 著 (2010年)

色自体はものを語りませんが、色の名前がその色そのものを語ると言うことが大いにあるのではないかと最近考えていますが、そのきっかけになったのがこの本。

この本に目を通し始めると色の背景、文化、受容された形、そして名前、その様々な側面に、先人たちの知恵とその色を知覚した瞳に気づくからです。
見ている事物がたとえ同じだったとしても、その色を映した瞳によってその知覚は違っていて、そこから生まれる言葉も、与える名前も大きく変わるのだろうと思えます。

わたしにも、「色の記憶」は数あれど、「色の名前の記憶」はそう多くありません。
それでも遡って探してみると、小学校時代、図画の時間に与えられたクレパス・セットにいきあたりました。
確か全色36色ほどあって、当時の自分は箱の中にこまごまと並べられていたパステルを眺めるのがただただ嬉しく(甘い油のような匂いも新鮮でした)、使うたびに少しずつ短く、巻き紙も汚れていくのがもったいないとさえ思えた、そんな記憶。

その中に「ビリジアン」と言う聞き慣れない名前の色のパステルを見つけました。
その深みのある緑と、名前のが持つ語感の濁り具合とが何かマッチしているようで、その色の名前だけ妙に頭にとどまることになりました。

私にとっては「色の標本」とも言えるこの本の中に改めてその名前を見つけ、それが画家マティスの残した様々な肖像画や自画像の中にも用いられていると言うことを知って、私の中の「ビリジアン」がより深く色づいて息づくような感覚になりました。
※この本の中では「ビリジャン Viridian」という綴りでしたが。


記憶の中で色は変わるし、褪せることもある。
ですが、逆に新しく色を得ることもあるらしいです。


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