「うっかり」さんを受け入れて@空耳アワーを追いかけろ②
「うっかり」が生み出すナンセンスは、偶発的にあらわれる。
そもそも計算が先に立っている場所に、「うっかり」は生まれようがありません。
計算や予測、コントロールが及ばないところで、ふと頭をもたげる「うっかり」は、とても音楽的で即興的だと私は考えています。
初めて即興に挑戦した時、自分に許された自由の大きさへの戸惑いと緊張で、破れかぶれのやけっぱちで音を並べてみました。
今はもう、その音のどれ一つとして思い出すことができませんが、思うにあの時こそ、自分が音楽を続けてきた中で最も「うっかり」発動モードにさらされていた瞬間ではなかったかと思うのです。
目隠しをされたような不安の中で探り当てた音。
自分の内側から音を紡ぎ出すという営みに戸惑いながら、計算も予想もつかない中で足掻くように身体を動かした先で放たれた音。
「今」聞こえた音に自分なりの解釈を与えて、次の瞬間に音を重ねる。その瞬間に間に合わなければその次の瞬間。その繰り返し。
一つの音に耳をすませる時、その音から読み取る意味や拾い上げる感覚、導き出される記憶は、人それぞれに違うものでしょう。
私がその瞬間にききとった音の特徴や美しさは、他の人のそれとはたとえ似ていたとしてもきっと違う。
ベートーヴェンを冷蔵庫と聞き間違え、あらぬ光景を頭に浮かべて、一人にんまりしてしまった時と同じように、即興は私自身が「うっかり」受け取る「音の意味」を許し、自由に循環させてくれるのです。
色んなものを飲み込んで。
遠大な「空耳アワー」。