コロンブスは繰り返す@「発見」をつつむコミュニティ
「発見」を前にして人は驚き、時に恐れることもある。

そんなことを実感する日常の中で、一音楽学生として勉強を進めていくうち、私が内でも外でも小さな葛藤を繰り返しているという体感が生まれ始めました。
というのも、周りからこのように聞かれることが多かったからです。
「瑛子、これとこれ、どっちが良いと思う?」
「こっち?これを選ぶんだね、どうして?」
「好きだから?それはどうして?どこが気に入ってるの?」
最初は、どうしてそのように聞かれるのか分かりませんでした。
「好きだから」で、どうして足りないの?
それ以上に強い理由なんてある?十分じゃない?
そう思っていました。
けれども、「好き」を叫ぶことは誰にだってできる。
もしも自分の「好き」を誰かにもわかってほしければ、願わくばその「好き」を共有したいと望むなら、その誰かに訴え、共感を得られる言葉を育てなくてはならない。
他者の前で自分の考えを表明する以上、「好きに理屈などあるものか」では通らないのです。
自分をわかってもらうためには、そもそも自分で自分のことをわかっていなければ言葉が続きません。
「あれ」ではなくて「これ」を選ぶ理由は自分の中にしかなく、自分の内側から言葉をたぐり寄せることでしか、答えは永久に見つからない。
葛藤は、「あれかこれか」を選ぶ時に生まれる、時として痛みさえ伴うような迷い。
「どっちでも良いよ、あなたの好きな方で」ではなく、「私はこれが好き」「これは素敵だと思う」「私ならそれは選ばない」。
そんな明確な感覚と意志を見つけ出し、大小さまざまな葛藤と迷いをいなした先に、確かな自我を「発見」して、視界が開ける。
そして今度こそ「なんとなく」ではなく、確かに自分の「好き」を胸を張って言えるようになるのだと思います。
葛藤には時間がかかる。
それでもその葛藤を我慢強く見守り、待ち続けられる場所と人の中にこそ、「発見」が姿を現わすのだな、とおもいました。
そして思うにその場所にはとてもあたたかな好奇心と、人間への深い興味が満ちていたと思えるのです。
「あなたという人間をより深く知りたい」
「何を考えて、何を大切にしている人間なのか」
「私はこれが好き、あなたは?」
他者に共感し、共鳴していくために。
互いの違いを浮き彫りにし、その背景と意味を考え、互いを攻撃するためではなく互いに肉薄していくために。
「発見」を繰り返す。
そうした「発見」を生み出す場所こそ、真の意味での「コミュニティ」と言えるのだろうと考えています。
またまた長くなりました。
次はその「発見」が、「音楽ワークショップ」の中でどのように現れるのか、というお話です。
見いだして 語るをまって 見いだして