魔法にかけられて@音楽ワークショップってなんなのさ
「音楽ワークショップ」って何だと思いますか?
私は「音楽ワークショップ」のアーティスト。
ですが今、この問いが世界の人を一人ひとりつかまえて、真っ先に問いかけてみたいことなのです。
私自身が音楽ワークショップに意味を見出せていないということではなく、広く、遠く、自分の信じるその価値を伝えて理解してもらうために、必要なことばがまだまだ全然足りていない、ということです。
音楽ワークショップをつくり、その中に人を招き入れて「これはこういうことですよ」と行為でもって表すことができても、その意味や価値をことばに落とし込むことは難しい。
私にとってそれがいかに大事なことであっても、他者にとっては取るに足らないことであることの方がきっと多い。
心に響くモノ、コトを味わえる時間はきっと一人ひとり限られていて、それらをお互いにみんな瞬時に理解し尊重できるほど、単純な世界であったならばどんなにか平和で、退屈だったでしょうか。
「音楽ワークショップ」の本質を射抜いた、うまいことばはないものか?
考えれば考えるほど、頭は勝手にことば遊びを始めて、すぐにつかまえられなくなる。
そこで言い募りたいことばを抑えて、私が音楽ワークショップが何であるかとひと言だけで答えるとするなら、
“「音楽ワークショップ」は「魔法」だ”
ということです。
この「魔法」に出会ったとき、私は「音楽」がはじめて、自分の外側にあるのではなく、自分の内側に力強く息づいていることに気づきました。
まず、「音楽」は美しい。
自分の時間のすべてを注ぎ込んで修練につとめても苦にならないほどなのに、いつまでも未熟な自己を突きつけられて絶望させられる、ずっと高い頂上のそのさらに上にある手の届かない美しさ。
それが「音楽」だと思っていました。
けれどもこの“魔法”にかかった時、知らず知らず、生まれてから長い時間をかけて水のように私自身の内側へしみ込んでいた「音楽」の律動と熱、そういったものが突然、新しい声を得て解放された。
そして「わたし」の内にある「音楽」があらわになると同じく、その場にいた別のだれかの「音楽」が導き出され、それらが合わさった時に立ち現れる新しい「音楽」。
声をきくことの叶わない、肖像画の中からこちらを見ている作曲家たちの手によってではなく、今、私たちの手で、「音楽」が生まれた。
なんて楽しくて、嬉しくて、驚きに満ちているんだろう。
そして、やはり「音楽」はなんて、美しいんだろう。
「外」にあったもの「内」に見つけ、そして「内」にあるものが「外」に放たれる、その終わりのない循環。
見えていた景色が突然に色を変えて、それまでの「音楽」の意味が一変してしまった。
まるで奇跡のように。
これを「魔法」と呼ばずしてなんと呼ぶでしょう?
そうして突然目の前に開けた「音楽」の世界に頭から飛び込んで、私の「音楽ワークショップ」焦がれこじらせライフが始まりました。
あの「魔法」が当時の私に伝えた力と驚きは、今思い出しても何か大切で特別な示唆を与え続けているように思います。
ところで今日は節分の日。
鬼は外、福は内。
けれども今日のような日は「内」も「外」も、なにかしら同じ意味をもって響いてくるのです。
そとはうち 瞳ひらけば うちはそと