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 先日、思いがけず休みをとった夫の発案で、家族で小さなピクニックに出かけました。

日が随分高くなってから、思いつきで出かけることになった、お散歩に毛がはえた程度の小さなピクニック。
平日の昼間、普段の私であれば家事に仕事に追われ、「まだあれできてないぞ、これできてないぞ」と過ぎていく時間を恨めしく思う時間。

見慣れた公園でゆっくりゆっくりサンドイッチを頬張りつつ、わずかにちぎれ雲を浮かべた空をふと見上げて「あれ、今日ってこんなに綺麗に晴れていたのか」と気づいた。

その時ふと思いました。

日常にとり紛れると、視界は広さを失う。

“「忙しい」とは心を失うということ”
とは本当によく言ったものだと思うのですが、忙しさに取り込まれると、心は簡単にアンテナを失い、自分の周りにある鮮やかな色にも気づけなくなるのだ…という感覚。

「忙しい」は誇らしいし、嬉しいこと。
それは、自分が誰かに、どこかで必要とされているということの表れだから。

けれども、日常にどんな小さな事からも「快」を見つけ、それを拾い上げることで、自分と言う人間が解放され、ささやかな喜びを感じるということも、同じぐらい大切なんじゃないか。
小さな「快」に和らぎ、息をついて楽しむ、そのことを、今の私がどれほどないがしろにしているか。

ふと脳裏に、かくしゃくと動き回っていたころの祖母が、ことあるごとに「ほら、一服しなさい」と言っていたことを思い出しました。

一服。

一服。

その古風な響きの中に、ささやかな喜びや楽しみを大切に生活に組み込んできた祖母の姿を見るようで、ふと心が緩んだのでした。

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